船大工の技術

鋸摺りと曲げ木

日本の伝統的な木造船は和船と呼ばれ、大正時代に日本へ本格的に導入された機帆船(丸船)とはその構造を全く異にしていた。丸船は、船底の中央に竜骨と呼ばれる大きな角材を据え、そこから人間の肋骨のように湾曲した肋材(ろくざい)を取り付け骨格を作り上げた後、肋材にそって外板を合わせた。一方で和船の場合は、航(かわら)と呼ばれる大きな杉板を船底に敷き、そこに外板をつなぎ合わせて立ち上げていく構造で、竜骨も肋材も用いなかった。船の形状も丸船が大きく湾曲した小判型であるのに対し、和船は丸みをおびた二等辺三角の形をしていた。
また木造船で使われる材木は、ほぼすべて飫肥杉(おびすぎ)が用いられてきた。これは宮崎県南東部の日南市付近で育成される杉で、通常の杉に比べて柔軟性が非情に長け、船の形状に合わせて曲げやすいため重宝されていた。

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木造船建造の様子(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)


横になりながら鋸をひく作業は、大変な重労働であった

どちらの船を作るにしても、木造船の建造において一番の鍵はいかに板と板の間から水の侵入を防ぐかであった。日本では、複数の板を接(は)ぐため伝統的に「鋸摺り(のこずり)」という接合法を用いてきた。鋸摺りでは、接合したい板と板とを合わせ、摺鋸(すりのこ)と呼ばれる刃が交互に違う向きをむいた特殊なノコギリで接合面を挽き切る。こうすることで左右の板の断面に組合わされた凹凸ができ、船卸し後、板に水分が加わって板同士がきつく密着するのだ。この鋸摺りの技術は、丸舟の建造においても同様に使われた。丸舟の場合は、和船に比べて容積が大きいため、船底部の鋸摺りは、下にゴザをひいて仰向けの状態で行われていた。
西洋では、この鋸摺り工法は存在しない。板と板の間の隙間に、ペースト状のものとロープ状のものを挟み込んで海水の侵入を防いでいた。しかし鋸摺りと比べて密着度は低く、浸水による海難事故が多発していたという。そのせいもあってか、西洋では木造船から鉄鋼船に移る時期が日本によりもずいぶんと早かった。


摺鋸は板の厚さやカーブの度合いによって、何種類も使い分けられていた


交互になった刃先が、合わせた板の断面に凹凸をつくる


柄の方から次第に薄くなっていく。摺鋸は高価なため大工たちは容易に買えず、代々譲り受けながら同じ摺鋸を使用していた

和船から機帆船に造船の主が移るに従って、その形を変えた船大工仕事の一つに「曲げ木」という工法がある。一般的に船には、直線というものがなく、船底の大きな船はほぼ球状の形をしている。よって、船に用いる木材もそれに合わせて曲げなければならない。和船は、前にも触れたようにカーブが緩いため、曲げ木の度合いも少なくてすむ。そのため焚いた火の上に木材をかざすことで暖め、そこに圧を加えることで思う方に曲げ、ときに捻っていた。一方、丸船はその形状が大きく湾曲しているため、船の外殻をおおう板(船殻外板)も大きくしならせる必要があったが、火を焚くことでは十分なしなりを得られなかった。そこで編み出されたのが蒸気を用いて曲げる工法である。蒸気で暖められた板はゴムのようにたわみ、水が滴るほど水分を含んだ状態となる。そのような状態の板を外殻にそって鋸摺りで接いでいくのだが、ここで一つ、和船の建造では起こらなかった問題が生じる。水分を含んだ船殻外板は、何ヶ月にもわたる建造中に乾燥し、縮んでいく。すると合わさっていたはずの板の間に若干の隙間が空いていくことになる。船卸ししてしまえば、一週間ほどで船殻外板は海水をたっぷりと吸い込むので、もとの密着した状態に戻るのだが、その期間だけは隙間を埋めておかないとならない。そこで生まれたのが、ホウコン屋と呼ばれる仕事だ。彼らの仕事は、杉の皮を隙間につめ、浸水から船を一週間保たせることだった。またたとえホウコンしたとしても船卸しの直後はよく浸水したため、船員たちは板が再び密着する一週間の間、アカ(水)をかき続けた。


木造船(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)