牛窓の歴史

牛窓で生まれ、客船の機関士を勤めた小家の叔父、福本宗夫(1912〜2004)が生前にうつした牛窓の写真が、彼の旧家から見つかった。
ここではその貴重な写真を中心に、牛窓の歴史をのぞいていく


牛窓港(昭和中期 © 2016 Hidenori Fukumoto)
画面手前は、旧木製県営桟橋。画面奥の2本マスト船は、エンジンを搭載した初期の機帆船で、帆の面積が大きい、エンジンは小型で航海は帆のウエイトが大きい船である。このときはまだ、港の出入りに機関を使用する程度であった。

機帆船(昭和中期 © 2016 Hidenori Fukumoto)
1本マスト時代の、比較的新しい木造機帆船(後期型)。この頃は、焼玉機関でも安定した航海が出来ていた。


進水式(昭和中期 © 2016 Hidenori Fukumoto)
50トン程度の機帆船。1本マストで、エンジンがしっかりしており、機走航海が安定した時代の船。


木造船(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
20トン程度の小型木造作業船で、焼玉機関を備えた機帆船。作業用アンカーを両舷側に装備している。

   
木造船舵(昭和中期 © 2016 Hidenori Fukumoto)
現在、牛窓港に隣接するホテルリマーニの場所には岡造船所があった。そこでつくられた木造船のスクリューと舵。


定期客船(昭和中期 © 2016 Hidenori Fukumoto) 南備海運の船で地元牛窓の人たちからは「なんび」と呼ばれ、小家の祖父は船長、叔父は機関長の時代があった。エンジンは焼玉機関を使用している。


「客船高千穂丸」(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
南備海運の客船で最大級の船で、100トンを越えていた。

ここで出てくる「焼玉機関」とは、ディーゼルエンジンが主流になるまでの内燃機関であり、高温になった鉄の玉(焼玉)に燃料(主に重油)を噴射し、シリンダー内で爆発させる仕組みになったもの。
焼玉機関は、朝の始動時、バーナーで鉄の玉を焼くという時間と手間の掛かるエンジンであったが、構造がシンプルで、燃料も安価な重油であったため、一時は多くの機帆船のエンジンが焼玉機関であった。
焼玉機関は明治後期頃から船舶に使われ始め、多くの改良がほどこされてきたが、昭和20年頃に船舶用のディーゼル機関が本格導入され始めたのを機に急速に減少し、昭和33年にその数が逆転、そして平成12年を最後にその姿を消した。
小家の叔父福本宗夫は、焼玉機関を搭載する客船の機関士であったが、鉄玉を焼く手間を軽減する活気的な発明をし、特許を取得している。
(参考文献:「第22回 消えていった焼玉船」(http://www.maboroshi-ch.com/old/ata/lif_22.htm)

焼玉機関の構造図(大山文武『焼玉式発動機』海文堂書店 昭和7年より)

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木造船建造の様子(昭和30年代 © 2016 草木造船所)

この写真の船は、牛窓での最後の木造船と言われている。場所は、牛窓町東町の草木造船所。船の大きさは19トンで、航海は機関航走(ディーゼルエンジン)である。
建造中の写真はほとんど世の中に出回っていない。当時写真を撮ることはかなり贅沢なことであり、一般的には、写真屋に頼んで写してもらう、かなり贅沢なものであった。したがって、船の写真を撮るときは、浸水式などの特別な行事に限られ、撮られた写真は額にいれて飾られていた。なので日頃から目にしている建造中の作業写真を撮るという行為は想像もつかなかったと、当時を知る人は証言している。

エンジン試運転(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
初期型ディーゼルエンジンの陸上試運転の様子。陸上専用施設にエンジンを設置し、ブレーキ付加により性能試験を行っていた。当時はディーゼル機関、焼玉機関が昆在していた。またこの頃のバルブロッカーアームにはオイルが通っておらず、機関士が油射器で定期的にオイルを手で射していた。

中浦服部(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
現在の牛窓漁協がある場所には、江戸時代から牛窓の豪商、東服部所有の燃料タンクがあった。


台風後の牛窓港(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
昭和30年代に襲来した、史上最大規模の台風直後の牛窓港の様子。牛窓港内に係船していた機帆船が沈没し、陸上では横倒しになったものもあった。


前島渡し(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
牛窓の本町と、対岸の前島とをむすんでいた渡し船。
現代はフェリーが通っており、港も別の場所に整備し直された。写真は、本町の五香宮から唐琴の瀬戸を写したもの。現在、この風景はほとんど変わっていない。

牛窓の家(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
伊勢神宮から年1回神楽が来て、牛窓の町内をめぐっていた。これは現代でも同じことが繰り返されている。画面左手前が福本宗夫の実家。右隣は現在オープンカフェとなっている。


神楽舞(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
伊勢神宮からの神楽が各家を巡った後、牛窓の関町の広場で神楽の大舞わし(おおまわし)が、大勢の人の前で演じられていた。この催し物は、レジャーが多様化するにつれて行われなくなった。


唐琴通り町並み(昭和30年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)
画面右の大きな家が旧中屋本宅(現在はない)。通りを挟んだ向かいの家が福本の家。画面左下ガラス戸の家では、木造船用の櫓が作られていた。


「昭和40年代の牛窓」(昭和40年代 © 2016 Hidenori Fukumoto)

40年代後半に撮影された牛窓の全景。中央のクレーン一帯が岡造船所。遠景の煙突は、共和カーボン牛窓工場のものである。
画面右の海水がたまった場所は、船舶用の材木問屋「東服部」が所有する貯木場。九州の宮崎から運び込んだ飫肥杉を筏に移し、乾燥を防ぐため海上で保管していた。
この時代、材木屋が沿岸を使用して保管することは法律的に不可能であったため、東服部は自らの土地を掘り下げ、海とつなげて貯木場としていた。ただ、当時は違反利用で、沿岸部に材木を貯蔵した業者はたくさんいたという。
材木を陸上で保管した場合、原木(丸太)は中心から放射線状に割れる「芯割れ」をおこし、そのまま製材し船舶に利用すると、板の割れ目から海水が侵入する恐れがあった。したがって、材木は十分な湿度を保つように海上で保管され、製材するときは、芯を除去するように行われた。また製材後は、舟のどの部分に使用するかで乾燥の度合いが変えられていた。
また、貯木場の上、屋根が縦に赤白の建物一帯は「木崎工作所」で、当時電気着火小型船舶エンジン(石油エンジン)の生産日本一を誇る会社であった。しかし、ディーゼルエンジンが一般化すると衰退し、倒産となった。